2006年03月13日

温故知新。TO*SCA監修東京広辞苑

えー。怒濤の集中更新が続いてスタッフ内でも混乱が起きております、TO*SCA-webへようこそ。

前々から温めていた特集、TO*SCA監修東京広辞苑の発表です。今回は『あ』だけですが今後徐々に増やしていきますので乞う御期待。

別に今日のネタがないからやるんじゃないやいッ!






[あ]




愛してるの歌【あいしてるのうた】

アマラオの十八番。にしきのあきらの「空に太陽があるかぎり」のこと。94シーズン最終戦、アウェイでNEC山形に敗戦を喫したのち、駅のそばで数名のサポーターがアマラオ(と他数名)に遭遇。最終戦に負けたショックで元気のないサポーターたちにアマラオが「カラオケ行クゥ〜?」と声をかけ、サポーターらがのると「行カナイヨォ」と一人ボケ突っ込みをかまし空気を一遍させた。その直後「愛してぇるぅ〜」と歌ったことがキッカケでアマラオのテーマソングとなった。ちなみにサポーターが歌う時に「本当にー」のコーラスの部分(繰り返しの部分)が疑問形でなくてはならなかったのは、アマラオの口癖が甲高い声での「本当ニィーー?」だったことが由来している。


アウミール【あうみーる】(人名)

99年在籍。本名「Almir Moraes Andrade」。通称「ミールさん」「ミール教授」。当時の東京には珍しい左利き選手。98年、JFLの大塚製薬に所属していたが真夏の東京戦(於夢の島)で大活躍をしてしまい、それを目の当たりにした東京フロント陣が獲得を決定。しかし当時の大塚ファンにしてみればその試合のアウミールのパフォーマンスについて「1年に1度出るか出ないか」という物だったらしいのはその後多くの東京ファンが実感することになったとかならなかったとか。必要以上のボールキープと必要以上に腰を落としたプレーでJ1昇格にまあまあ貢献。サポーターからは不評だったがキング・アマラオからは絶対の信頼を得ていた。


浅利悟【あさりさとる】(人名)

97年〜。通称「サリー」。よく走りよく守る。大熊時代には大熊サッカーの心臓とも言えるポジションを持ち前のおとなしい性格で黙々とこなしていた選手。地味ながらその働きの貢献度は高く、97年ルーキーイヤーにはJFLベストイレブンを受賞、また、同じく97年天皇杯で中田英寿にマンツーマンでつきシャットアウトした。99年J2シーズンではアウミールにウンザリ気味だったサポーターの“アウミールを小池に代えろ!”の意味を含んだ「ペルー小池!」コールのとばっちりをうけてよく小池と選手交代をさせられていたという非運な時期も経験している。仕事が地味なこともあってサポーターからの「浅利」コールが少ないのにもめげずコンスタントに働ける東京きっての堅実プレイヤー。いまやJ1唯一のサラリーマン契約選手。性格も控えめ。


アシス【あしす】(人名)

97年在籍。アマラオ、エドウィン、ビルッカに次ぐ97年度の第4の外国人選手。リーグでは出場回数に恵まれなかったものの、アマラオを怪我で欠いた97年天皇杯では累積警告で出場出来なかった準決勝を除く全ての試合に出場し、その時期、解雇が決まっていたにも関わらず素晴らしい活躍でエドウィン、奥原らとともに快進撃の立て役者に。4回戦、横浜マリノス戦では(この年のW杯予選で主役級の存在になっていた)GK川口能活をサラリとかわして決勝ゴールを決めている。「Wow Wow Wow!アシスアニマル!」は以後トゥットの様な強引系選手に受け継がれたが、このアシスは東京でも屈指の技巧派であった。


味スタ【あじすた】(略語・呼称)

味の素スタジアムの略。まんまでひねりなし。


味の素スタジアム【あじのもとすたじあむ】(競技場名)

2001年、(当時)東京スタジアムのネーミングライツを味の素が平成15年から平成20年の5年間12億円で獲得しこの名前に。変更当初はかなり戸惑うファンも多かったようだがいつの間にか定着。これが平成21年から違う名になる可能性があるのだから不思議な話である。次はぜひ「ファミリーマート」かなんかにネーミングライツを獲得してもらって「ファミスタ」と呼んでみたい。


アド【あど】(人名)

サポーターのひとり。通称「王子」。「王子」だがけして金持ちなわけではない。95年の富士通戦、試合に興奮していた勢いでアマラオの「アマ」とエドウィンの「エド」をごっちゃにして「アド」と叫んでしまった。その3秒後に東京は失点。以来、「アド」と改名。99年には仙台スタジアムで選手紹介時、旗をオーロラビジョン間近で広げていた為スタジアムDJが「スーパービジョンにさわるなー!!!!」と選手紹介(しかも仙台の)を中断してまでアドを一喝。「日本で唯一スタジアムDJに直に怒られた人物」という物凄い経歴を持っている。


兄貴【あにき】(TO*SCA用語)

本紙スタッフ、ともだみなこ編集員のこと。あくまでも哀川翔のことではないので注意。名物コーナー『兄貴かく語りき』で作り上げられた兄貴像を崇拝するファンが急増中。中には女子高生もいたとかでスタッフは皆驚愕している。


阿部吉朗【あべよしろう】(人名)

02年2ndステージ途中に入団。デビュー戦となった天皇杯3回戦では2得点をあげてファンに強烈なインパクトを与えた。03年からは原監督の秘蔵っ子としてスタメンにも名を連ねるようになり、シーズン途中からはスーパーサブとして活躍、リーグ戦27試合出場6得点はこの年の全チーム中ルーキーでは最も優れた成績であるにもかかわらずJリーグアウォーズでは「優秀新人賞」すら与えてもらえなかった地味、もとい、可哀想な人。入団当初そのプレーは気紛れでやたら流れから消えるがシュートはやたら枠にいく、というつかみ所のない東京きっての不思議ちゃんであったものの03年天皇杯での活躍が認められ3代目天皇杯男を襲名。04年からはアマラオの11番を受け継ぐという大役を任されるが、05年、大分にレンタル移籍し、東京関係者を困らせた。しかし大分では約束してもらっていたハズのFWのポジションが実際には用意されてなく、右サイドハーフを押し付けられ、嫌になっちゃって遂にはレンタル期限前の2ndシーズン途中から東京に復帰。「年内に帰ってくるなら最初から行かなきゃいーじゃん」とサラリと突っ込みを受けながら復帰第1戦アウェイ柏戦で得点をしている。顔はヤンキーっぽいがとてもイイ人。


アマラオ【あまらお】(人名)

92年〜03年。東京ガス時代よりチームを支えた“なんちゃってブラジル人”。日本名「大作」。本名「Wagner Pereira Cardozo」短くして「Amaral」(注:うそ)。通称「王様」「キング」「キング・オブ・東京」「都知事」「アマ」「じじい」「御老体」「おじいちゃん」「おバカ」「ポンコツ」。主にお笑い担当。得意技はシュートをはずした直後の「体育座り」、十八番「空に太陽があるかぎり(にしきのあきら)」。サンバを踊ったことがなかったので一説には「ブラジル人ではないのでは?」と囁かれていたが97年の本田技研戦「ブラジルデー」でゴールを決め直後サンバを踊り「アマラオ日本人説」を一時払拭。しかしながらそれ以降も「本当はブラジル帰化を狙っている」という噂がたえない。彼がつくった数々の伝説(“ネタ”とも言う)の中でも特筆すべきは、97年9月7日W杯アジア2次予選、日本代表対ウズベキスタン代表戦、当時の日本代表エース、キング・カズの4得点に小さく対抗して、翌9月8日、江戸川競技場で行われた対元宿敵・川崎フロンターレ戦において、4得点でチームを逆転勝利に導き、“キング・オブ・東京”の名を世に(ちょびっと)知らしめたという嘘のような実話であろう。98年JFL優勝直後嬉しさのあまり見事な壊れっぷりを披露。00年J1初年度は彼らしからぬスーパーゴールを連発、当時33歳という歳ながら“大化け”に成功している。00年11月には生意気にも移籍騒動でチーム、サポーターを騒がせている。03年、それまで自ら牽引してきたチームの世代交代を進める意味も込めてシーズン終了を待たずして退団を表明。2ndステージ優勝争いの中、14節のホーム最終戦ではロスタイムの失点に泣く結果で優勝を逃すが最終節アウェイ柏戦では終了間際の2得点で逆転勝利の立て役者となり自ら花道を飾る。その空気の読めなさ加減に対する「それを1試合前でやれよ!」という突っ込みはもちろん“暗黙の了解”という方向で。顔が異様に小さい。

《⇨アマラオ騒動》
《⇨アマラオ大作戦》


アマラオ騒動【あまらお−そうどう】(歴史)

00年11月に起きたアマラオの移籍騒動。当時のチームへの不満と自身の優勝に対する希望や年齢、そして他チームからの非公式的な誘い、などの理由でアマラオが移籍を希望。それを一部のサポーターが知り、ホーム市原戦の前日にアマラオと会談を持ち説得にかかり、その事情をインターネットなどで他の東京サポーターに伝えた約2週間の内輪モメ。チームとしてもアマラオとしても一切公式的な発表はしておらず、公にもほとんど知られていないで一件落着に至った東京ならではの事件。


アマラオ大作戦【あまらお−だいさくせん】(古語)

JFL時代に東京が頻繁に用いた戦術。その名の通りアマラオを前線に一人残し後ろからのロングフィード一本だけでアマラオに繋ぎ、アマラオが一人で点を取って来るという強引かつ単純明解ナイスな作戦。


雨の東京【あめのとうきょう】(古語)

94年9月に行われた江戸川での柏戦(0−1)、C大阪戦(3v2)など雨の試合での好ゲームが続き「雨の日に強い東京」というイメージが強くなったことによりこう呼ばれるようになった。ようするに当時のチームは足下の技術は未熟で普通のピッチコンディションではほとんど歯がたたない相手にも、雨でぬかるんだピッチでは持ち前の走りっぷりで強豪を苦しめていたということ。今ではテクニックがある選手が増えてしまったため、逆に雨の試合では不利になる傾向があるところに時代の流れを感じる。


アルベルト【あるべると】(人名)

94年〜95年在籍。ジュニアクラブのちびっ子からは「ひげのアルベルトおじちゃん」と親しまれていた、と当時のJFLパンフレットのチーム選手紹介の欄には書かれていたが、誰一人としてその事実を目撃した者がいないという不思議な逸話を持つ。その風貌は新大久保や歌舞伎町あたりでクス○を売ってそうなアラブ人のようだったが、子供達には好かれていたのだろう。あぶなっかしい左足(きき足)のキックと長身を生かしながらも時たま物凄い失敗をしてしまうヘディングは何度も東京ゴールを救った。ただし時折東京ゴールを襲ったのは内緒だ。一時期サポーターのあいだではアルベルトがボールを触る度に『アルベルト』コール(しかも1回)をする、というのが流行したが、あまり意味のないものであった。94年天皇杯鹿島戦勝利の経験者。


アンジェロ【あんじぇろ】(人名)

98年在籍。長身に似合わぬテクニックとリーチの長い足から振り抜かれる(あまり強くない)シュート、スライドの長いドリブルが特徴。98年JFL優勝に貢献。東京には珍しいお笑い系ではない外国人選手。


アンジェロさん【あんじぇろさん】(人名)

94年、95年のフィジカルコーチ。サポーターから大人気で、初めてサポーターに自分のユニフォームをプレゼントしてくれた気前の良い人。東京を退団したのち、母国へも戻りコリンチャンスのゼネラルマネージャーに就任。大出世を果たすものの、2000年今井氏が川崎フロンターレ監督になった折にフィジカルコーチに就任、再来日している。









投稿者 tosca-web : 23:04 | トラックバック